藤原道長の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ・・・」の現代語訳と詠まれた背景を解説!

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歴史・和歌
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藤原道長は平安時代を生きた人物で、自分の娘を天皇の妃とすることで外戚として権力を掌握し、藤原氏の最盛期を築き上げました。今回は、道長の代表する和歌、望月の歌を解説します。

藤原道長について

藤原道長は兼家の五男で、兄には道隆や道兼がいます。しかし兄弟が相次いで亡くなり、藤原道隆の嫡男である伊周(これちか)との政争に勝つと(長徳の変)、左大臣として政権を握るようになります。

道長は1016年には摂政(幼い天皇の代わりに政務を執る役)となり、藤原氏の地位を絶対的なものにしました。その後は体調を崩し、1019年に出家、1027年に亡くなりました。

関白になった事実はないものの、御堂関白と称せられました。『御堂関白記』は道長の33歳から56歳にかけての日記で、京都の陽明文庫に現物が保存されています。世界最古級の自筆日記として、国宝、ユネスコ記憶遺産に登録されています。

望月の歌 現代語訳と解説

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば

歌意

今のこの世の中を、自分のためにあると思う。なぜなら、今宵の満月が欠けているところがなく皓々と輝いているのと同じように、私にも満ち足りぬところが全くないのだから。

この歌は藤原実資の日記『小右記』に記録されており、それによるとこの歌は、道長の娘威子(いし)が後一条天皇の皇后になったことを祝う宴の場で詠まれた歌とされています。

1018年、道長の娘威子が後一条天皇中宮になり、同時に威子の娘彰子(しょうし)が太皇太后宮に、姉の姸子(けんし)が皇太后宮になりました。道長の娘3人が三后を占めたのです。その時の天皇は後一条天皇で、彰子の子にあたるため、まさに道長にとっては欠けたることのない状況だったのです。

三后とは?

その夜は初冬の十六夜の月が美しく、道長が実資を呼んで詠みあげた歌がこの歌です。実資は「御優美なり」と言うだけで、歌を返すことは断念しました。ただ皆でこの歌を詠じてみてはどうかと呼びかけ、その夜は終日吟詠したと言われています。

歴史物語における道長

歴史物語の代表作『栄花物語』では、女房たちから見た道長一家の繁栄が記録されています。編者は定かになっていませんが、正編は赤染衛門とする説が有力です。道長賛美の物語として知られていますが、初の女性の手による歴史叙述としても非常に大きな価値があります。紫式部の『源氏物語』の影響も色濃く出ています。

大宅世継(おおやけのよつぎ)・夏山繁樹(なつやまのしげき)という100歳を超えた2人の老人の対話を若い侍が聞くという形で語られる歴史物語『大鏡』では、『栄花物語』とは対照的に道長に批判的であるとされることが多いです。しかし、「道長は人夫たちに酒食や衣類を惜しみなく支給するので非常に喜ばれ、自ら進んで奉仕する者が絶たない」などと肯定的な叙述も見られるので、一概に道長を批判しているわけではありません。藤原氏の摂関政治史が気になる方は一度『大鏡』を読んでみてもいいかもしれません。

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まとめ

道長は、摂関政治で一時代を築いた人物です。大河ドラマ『光る君』でもこの望月の歌が詠まれるはずなので、ぜひチェックしてみてください。

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