【全国版】合戦跡・古戦場を巡る旅

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かつて合戦が行われた場所は、現在は古戦場や城址として残されている場所もあり、今でも当時の様子を思い浮かべることができます。各時代ごとに独自の背景と影響を持つこれらの戦いは、日本の歴史を形成する上で不可欠な出来事です。ここでは数々の歴史的な戦いの中からいくつかをピックアップして紹介します。

源平合戦

壇ノ浦の戦い(1185年)

赤間神宮
山口県下関市にある赤間神宮

1185年2月の屋島の戦いで源氏軍が平家軍の本拠地・屋島を落とし、瀬戸内海を西に逃げた平家軍は関門海峡の壇ノ浦で源氏軍と対峙します。関門海峡は潮の流れが早く、これを生かした平家軍が戦況を有利に進めていましたが、潮流の変化で形勢が逆転し、源氏側の反撃に合い平家は滅亡に追いやられました。この戦いが、源頼朝が鎌倉幕府を開く大きな足がかりとなったのです。

山口県下関市にある赤間神宮には、義経に追われ三種の神器とともに入水された安徳天皇(当時数え年8歳)と平家一門を祀っています。近くには唐戸市場があり、週末は観光客で賑わいを見せています。

めかり第2展望台から夕暮れの関門橋

現在、関門海峡には関門橋が架かり、全長1,068メートルの吊り橋が本州と九州を繫いでいます。

戦国時代

厳島の戦い(1555年)

この当時、中国地方は大内氏と尼子氏が覇権を争っていました。厳島の戦いは、主君の大内義隆を討ち実権を握った陶晴賢(すえはるかた)を毛利元就が討ち取った戦いで、毛利が4000、対する陶勢は20,000とも言われる兵力差を覆したことで有名です。毛利元就は村上水軍に援軍を要請し、厳島に上陸。元就の三男・小早川隆景は村上水軍と厳島に向かい、陶晴賢を挟み撃ちにしました。この戦い以後、毛利氏は全国に名を馳せる戦国大名へと成長していきます。

桶狭間の戦い(1560年)

戦国時代真っ只中、尾張を手に入れようとした今川義元と尾張の守護代織田信長との間で起きた有名な戦が桶狭間の戦いです。圧倒的な兵力差を覆し、織田信長の勝利で決着しました。

現在、この戦いの跡が桶狭間古戦場公園として整備されており、織田信長と今川義元の銅像が立っています。すぐ近くには観光案内所も整備されており、観光の拠点として活用することができます。ガイドさんから話を聞きながら、当時の様子を窺い知るのもおすすめです。

川中島の戦い 第4次合戦(1561年)

川中島の戦いは甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が覇権を争い、1553年~1564年の12年間、5回にわたって繰り広げられた合戦の総称ですが、第4次合戦は特に大規模な戦いとなりました。しかしこの戦の決着は着いていません。この戦いにあたって、川中島の拠点として築城されたのが松代城です。その当時は「海津城」とも呼ばれていたようです。

戦いの跡地は川中島古戦場史跡公園(長野県長野市)として整備されています。また公園から千曲川を渡ったところには松城城址があり、往時の賑わいを感じることができる場所になっています。城郭は小ぶりではありますが、付近の「真田邸」や「文武学校」とセットで観光すると、観光を1日楽しめると思います。

関ヶ原の戦い(1600年)

天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍によって美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で行われた戦いです。動かない西軍の毛利軍、西軍の小早川秀秋の寝返りもあり戦いはわずか数時間で決着し、家康の天下統一が果たされました。

関ヶ原古戦場跡には石碑や、徳川家・石田家の家紋入りの旗が立てられ戦場の雰囲気を味わえます。笹尾山は石田三成が陣を敷いた場所で、敵からの攻撃を防ぐための馬防柵が復元されています。関ヶ原は丘陵地に位置しており、高台の上から見下ろすと、当時の陣営の様子を容易く想像することができます。レンタサイクルやガイドツアーもあるので、そういったものを活用しながら観光するのもおすすめです。

大坂冬の陣・夏の陣(1614年、1615年)

秀吉が築いた大阪城は五重八階、金の飾りなど豪華絢爛な城で秀吉の天下人としての権威を示しました。しかし秀吉の死後、「方広寺鐘銘事件」(1614年)を発端に徳川家康による2度に渡る大坂の陣で落城し、豊臣家は滅亡しました。その後、江戸幕府の2代目将軍徳川秀忠の時に秀吉の城を上回る規模で徳川大坂城天守が修築されました。現在の天守は1931年にSRC造で復元されたものです。

敷地内には見所がたくさんあり、豊國神社や日本庭園へ立ち寄りながら、城内を散策することができます。また西の丸庭園には、広大な原っぱが整備されており、府民の憩いの場として知られています。また外堀付近には、コンサートホールや野球場などが建てられるなど、当時から現代に至るまで、常に文化の中心地として栄えている様子を感じることができる場所でもあります。

幕末の動乱

約260年間続いた江戸時代も1868年に徳川慶喜の大政奉還によって終わりを迎えます。新政府は王政復古の大号令を発し、天皇中心の政治に戻すことを宣言しました。旧幕府の影響力を排除するため、徳川慶喜に対して役職辞任と領地返上を求めましたが、この処遇に不満を持った旧幕府軍が新政府軍と対立を深め、京都で衝突しました(鳥羽・伏見の戦い)。ここから始まる1年半の抗争を戊辰戦争と言います。

二本松の戦い(1868年)

二本松城

江戸の無血開城の後、新政府軍は会津を標的にしました。旧幕府軍に参加した二本松藩と新政府軍との間で起こった戊辰戦争の一つが二本松の戦いです。二本松藩は奥羽街道の要衝で、また古来より白河は関所があり新政府軍にとって奥州に攻め入るためには重要な拠点でした。激しい戦いで二本松城は落城、旧幕府軍は敗れてしまいます。1615年に起きた大坂の陣以降、城を枕に討ち死にした藩は三百余藩ある中で二本松藩だけであったと伝わります。

二本松城は二本松市街から小高い山の上に登ったところに位置しています。天守台からは、二本松市街を一望することができる広大な景色が広がります。また市街とは反対方面へ目を向けると、天気の良い日には、安達太良山を望むことができます。そんな景色も楽しみながら、歴史を感じられるおすすめスポットです。

会津戦争(1868年)

会津若松城(鶴ヶ城)

会津藩は旧幕府軍に属し、新政府軍からの激しい攻撃を受けました。16〜17歳の男子で編成された白虎隊も飯盛山へ敗走し、そこで会津若松城(鶴ヶ城)の煙を落城と思い自害してしまいます。敗れた旧幕府軍は敗走し、会津から脱出して北上します。

会津若松城は戊辰戦争で1ヶ月の篭城に耐え、城の堅牢ぶりを見せつけました。多用された石垣も美しく、野面積みをはじめとして色々な技法の石垣が見られます。

会津盆地のほぼ中心地に建つこの城は、会津若松市のシンボル的存在として多くの観光客が訪れます。天気の良い日には、磐梯山を北西方向に見通すことができます。さざえ堂や大内宿などとセットで観光するのがおすすめです。

箱館戦争(1868年〜1869年)

戊辰戦争の最終戦となった箱館戦争では、箱館五稜郭を中心に榎本武揚ら旧幕府軍が新政府軍と戦いました。新撰組副長だった土方歳三もこの戦いで戦死してしまいます。戦いは7ヶ月続きましたが、旧幕府軍の降伏によって鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争が終結します。

旧幕府軍の榎本武揚はこの戦いに敗れ投獄されますが、箱館戦争で追い詰められ自害する覚悟をしていた武揚は、ある書物を戦災から守るために新政府軍側の黒田清隆に託していました。それは『万国海律全書』という国際法の本で、その知見の深さや国の為を思う榎本武揚は新政府でも必要な人材として助命され、今後の明治政府の重臣を担うことになります。

現在は「五稜郭公園」として、隣接している「五稜郭タワー」と共に観光スポットになっています。毎年5月には戊辰戦争で亡くなった戦士たちを忍び、函館五稜郭祭が行われています。訪れた際には、明治の時代から味の変わらない五島軒のカレーも味わってみましょう。

まとめ

かつての武将たちが戦った跡は全国各地に残されています。それは城跡だったり、公園として整備されていたり、あるいは建物が建っているかもしれません。探してみると身近なところにあったりしますので、ぜひ古戦場で歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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