秋の和歌10選!〜万葉集・古今集などから代表的な歌を厳選〜

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歴史・和歌
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上代から中世にかけて成立した歌集の中から、有名な秋の和歌を厳選しました。秋の歌はどこか寂しげですが、新古今和歌集の三夕さんせきの歌をはじめ有名な歌がたくさんあります。ぜひチェックしてみてください!

春・夏の和歌も紹介していますのであわせてご覧ください。

万葉集

君待つと 吾が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く〈額田王〉

歌意

あなたのおいでを待って恋しく思っておりますと、私の家の簾を動かして秋の風が吹いていきます。

額田王は万葉の代表的女流歌人です。夫(天智天皇)の来訪を待ちわびていると、家の簾が動いたのであの人が来たかと思ったが、ただ寂しい秋風が吹いて簾を揺らしただけであったという、儚い情景が想像されます。

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古今和歌集

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる〈藤原敏行〉

歌意

秋が来たと、目にははっきり見えないけれど、耳に聞く風の音にはっと気付かされる。

立秋の日に詠まれた歌で、まだ木々は青く、目では秋の訪れは感じられないけれど、風の音に秋の気配を感じ取った、とても感覚的で率直な歌とも言えます。確かに、今でも立秋が過ぎて暦上は秋になっても、まだまだ暑い日が続き、木々も青々として中々秋を実感することはないかもしれません。でもふと朝や夕方に涼しい風が吹いて秋の気配を感じることはあるのではないでしょうか。

奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき〈詠み人知らず〉

歌意

奥深い山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、いっそう秋が悲しく感じられる。

百人一首にも採られている有名な和歌です。「踏み分け」の主体が人か鹿か、解釈が分かれていますが、いずれにしても雄鹿が雌鹿を求めて鳴く声に、美しくもどことなく寂しい情景が想起させられます。

猿丸大夫の歌とも言われますが、『古今集』では詠み人知らずとして載っています。猿丸大夫は生没年も不詳で、伝承上の人物という説もあります。

このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに〈菅原道真〉

歌意

今回の旅は急のことで、道祖神に捧げるぬさの用意もできませんでした。代わりにこの錦のような手向山の紅葉を手向けることに致します。神よ、御心のままにお受け取り下さい。

この歌は学問の神様として有名な菅原道真によって詠まれた歌で、百人一首にも採られています。宇多天皇が吉野に行幸した時に手向山で詠まれたとされ、「このたび」に「今度」と「この旅」を掛け、「手向山」には「手向ける」の意も掛けられています。

秋の野に 人まつ虫の 声すなり 我かと行きて いざ訪(とぶら)はむ〈詠み人知らず〉

歌意

秋の野に、人を待つ松虫の声がしている。私を待っているのだろうか、いざ行ってみよう。

松虫に、人を「待つ」という意味を掛けており、松虫の悲しげな鳴き声が人を待つ寂しさをよく表しています。自然界の松虫が人を待つ、そして人である作者が松虫の声を聞いて訪ねてみる、自然と人の世界が一体になっているのも面白いですね。

ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは〈在原業平〉

歌意

遠い昔の神代でさえも聞いたことがない。竜田川が水を韓紅色に絞り染めにするとは。

韓紅(からくれない)は、韓から到来した紅のことです。竜田川の水面に浮かぶ紅葉を絞り染め模様に見立てて詠まれた歌です。絞り染めとは、布を絞ってから染めることで独特な模様を浮かび上がらせる手法のことです。この歌は百人一首にも採られています。

ちなみに竜田揚げの名前の由来は、揚げた後の醤油の赤色と白い斑点の様子を紅葉の流れる竜田川に見立てたからとも言われています。

新古今和歌集

『新古今集』では、結びが「秋の夕暮れ」となっている歌が三首続いており、三夕さんせきの歌」として親しまれています。ここではそんな「三夕の歌」を紹介します。いずれの歌も秋の夕暮れの寂しさを詠んでいます。

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寂しさは その色としも なかりけり 槇(まき)立つ山の 秋の夕暮れ〈寂蓮〉

歌意

この寂しさは、取り立ててどの色ということでもなかった。杉や檜が生茂る緑の山でも秋の夕暮れの寂しさが感じられるよ。

槇とは、杉や檜などの常緑樹の総称です。秋の代表的な景色としては紅葉が思い浮かびますが、寂蓮のこの歌では緑が生茂る山の夕暮れの様子が詠み込まれています。体言止めで寂しさの余韻が伝わってきます。

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ〈西行法師〉

歌意

趣を理解する心がない我が身にもしみじみとした趣が自然と感じられることだ。鴫が飛び立つ沢の、秋の夕暮れよ。

『新古今和歌集』の中で一番多く歌が選ばれているのが西行です。西行は紀伊国(現在の和歌山県)に生まれ武士として活躍しますが、23歳の若さで出家します。出家後は旅とともにいくつもの歌を残し、のちに松尾芭蕉にも影響を与えることになります。

この歌では秋の夕暮れの静かな沢に羽音を立てて鴫が飛び立っていく光景が詠まれており、飛び立った後、静かな沢に戻るまでの様子が連想されます。音が立った後はより静けさを感じる、そんな秋の夕暮れです。

見わたせば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ〈藤原定家〉

歌意

見渡すと春の桜も秋の紅葉も何もない。しかしそれ故に一層趣深い、海辺に苫屋が見える秋の夕暮れよ。

西行に勧められて詠んだ歌で、花も紅葉も何もないが、それがかえって趣深いのだという詠嘆の意と解釈できます。

『源氏物語』の「明石」の巻では、「はるばると物のとどこほりなき海面なるに、なかなか春秋の花紅葉の盛りなるよりも、ただそこはかとなう繁れる陰どもなまめかしきに」というように、春や秋の花・紅葉よりも、そこはかとなく生茂る草陰などに趣を見出しており、定家の歌はこれを踏まえていると言われています。

後拾遺和歌集

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり〈能因法師〉

歌意

山風が吹き散らす三室山の紅葉は、龍田川の川面に落ちて流れて美しい錦を織りなすのだなあ。

能因法師の晩年に詠まれた歌で、百人一首にも選ばれています。風で紅葉が散ってしまうのは惜しいことですが、散った紅葉は川面を彩り、まるで錦のようだという気付きを歌にしています。

まとめ

秋は木々の葉も落ち、日に日に寒さが増していく、どことなく寂しさを感じる季節でもあります。これまで詠まれてきた数々の和歌を鑑賞すると、この季節に感傷的になるのは今も昔も変わらないものだと認識させられます。ぜひ、秋の夜長には和歌の世界に浸ってみてください。

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