紫式部は平安時代を代表する女流作家で、『源氏物語』を書いた人物として広く知られています。ここでは紫式部によって詠まれた和歌を厳選して紹介します。
紫式部の生い立ち
紫式部は越前守藤原為時の娘で、為時は高名な漢学者でした。その影響もあり、幼い頃から漢詩や漢文を読むのが得意でした。『紫式部日記』においては、父が「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」と嘆いていたとも書かれています。
やがて藤原宣孝と結婚し、賢子(後の大弐三位)を生みますが、結婚後3年足らずで夫と死別してしまいます。以後、『源氏物語』の執筆に取り掛かったと言われています。これが貴族の間で評判を呼び、文名が上がるとともに藤原道長に抜擢され、道長の娘である中宮藤原彰子のもとに出仕するようになりました。
紫式部の和歌
めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
この歌は百人一首にも採られているので有名ですが、元は『紫式部集』にある歌です。この歌の前に詞書があります。
「早くより童友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆき逢いたる、ほのかにて、七月十日のころ、月に競ひて帰り侍りければ」(昔からの幼友達で、久しぶりに会えた人が、7月10日頃の夜、月と競うように慌ただしく帰ってしまったので)
年を経て久しぶりに幼友達に再開したものの、十分に語り合う間もなく慌ただしく帰ってしまった、そんな名残惜しさが、雲に隠れて見えなくなる光景に重ねて詠まれています。
後半の「夜半の月かな」を「夜半の月影」とする場合もあります。
春なれど 白嶺のみゆき いや積もり 解くべきほどの いつとなきかな
紫式部の父藤原為時が越前国守となった時、父に同行する形で紫式部も越前国府へ下向しました。越前にいる時に藤原宣孝から手紙が届き、それに返答した時の歌です。藤原宣孝の手紙には、「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ」(春は氷も解ける季節、あなたの心も解けるものだとどうにか伝えたい)という恋文が書かれていました。これに対する返事なので、一見冷たい返事にも見えますが、本当に関心がなければ返歌さえしないのではないでしょうか。
ちなみに中国の書『礼記』に、「孟春の月、東風氷を解く」(初春になると東風が氷を解かす」とあります。
名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね
紫式部が越前から京に帰る際、琵琶湖の舟から白い雪を被った伊吹山を見て詠んだ歌です。越前国府での暮らしは紫式部の心の中にも強く印象に残ったことでしょう。『源氏物語』にも「越のしらやま」として登場します。
紫式部の娘「大弐三位(だいにのさんみ)」の和歌
大弐三位は紫式部の娘(藤原賢子)で、母とは違って自由でおおらかな人物だったと言われています。百人一首にも選出されている有名な和歌があります。
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
連絡が途絶えがちになっていた男性から「心変わりしていないか心配だ」という手紙が送られてきて、それに対する返事がこの歌です。「有馬山猪名の笹原風吹けば」は「そよ」を導く序詞です。風が「そよそよ」と吹く様子と、「そうですよ」の意味の「そよ」が掛けられています。
有馬山は摂津国(現在の兵庫県)にある一帯の山の総称で、和歌の世界では猪名野の背景の山として詠まれます。
まとめ
『源氏物語』には全54帖に合計800首近くもの和歌が登場します。今回紹介したのはごくわずかですが、お気に入りの和歌に出会うきっかけになれば幸いです。