江戸時代を代表する俳人の一人である松尾芭蕉は、晩年、約半年をかけて奥州〜北陸を巡回しました。その一連の内容は『おくのほそ道』として一つの作品にまとめあげられ、現代にまで伝えられています。
芭蕉は、奥の細道の道中で感じたことを俳句に残しながら、曾良と共に旅を遂行しました。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」ではじまる冒頭はあまりにも有名であり、また作品中には名句と呼ばれるような多数の俳句が登場します。当時のルートを辿りながら、順を追って解説していきます。
この記事では、芭蕉が奥の細道の道中で訪れた数々の場所の中から、この現代にも残る絶景を順に見ていこうと思います。芭蕉がどのような気持ちで訪れ、またどのように俳句を残したのかを想像しながら辿ってみてください。
栃木県 日光
あらたふと 青葉若葉の 日の光
江戸深川を旅立った芭蕉は草加、室の八嶋を経由して日光東照宮を訪れます。日光は言わずと知れた観光名所で、「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。中でも徳川家康がまつられた日光東照宮は世界的にも有名で、多くの観光客が訪れます。
本文中に「往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。」とあるように、二荒を音読みして日光となったと伝わります。余談ですが、日光は江戸の真北にあり、さらに日光東照宮の陽明門の真上に北極星が輝く位置関係になっています。
栃木県 黒羽(雲巌寺)
木啄も 庵はやぶらず 夏木立
日光を経て、芭蕉は大田原にある雲巌寺を訪問しました。この雲巌寺には2週間程滞在したと言われています。夏木立に囲まれ別世界のような雰囲気を醸し出すこのエリアは、芭蕉もお気に入りだったようです。
手前の朱色の反橋が印象的な雲巌寺は、禅宗の四大道場とも呼ばれるなど、荘厳な様子を感じ取ることができます。大田原市街からはやや離れた位置にあるため、アクセスは容易ではないですが、道路を跨いだすぐ反対側に大きめの駐車場があり、観光バス等も訪れるような場所です。新緑はもちろん、紅葉や雪景色も美しい場所として知られています。
栃木県 那須(殺生石)
野を横に 馬牽むけよ ほととぎす
芭蕉は陸羽街道沿いに北上し、殺生石のある那須へ向かいました。九尾の狐が毒石となって生けるものを殺したという伝説を持つこの巨石は、今でも周囲には硫化水素が発生しており、なんとも言えない妖しげな雰囲気が漂います。芭蕉の記述にも、蜂や蛾が重なり死んでいたとの言及があるなど、当時の驚いた様子を窺い知ることができます。
那須周辺は当時から温泉が沸き続けており、芭蕉自身も那須滞在中には、那須湯元温泉に浸かったのではないかと想像されます。
宮城県 多賀城
白河の関を超えると、いよいよ奥州路へと入っていくことになります。奥州路で芭蕉が最も訪れたかった場所の一つがこの多賀城です。多賀城跡に到着してまず訪れたのは「壺の碑(多賀城碑)」です。
壺の碑は、古くから多くの歌枕に詠まれていたため、古人が詠んだ碑を自身の目で見て、その思いに触れることができた喜びで感激することになります。この感慨を芭蕉は「疑なき千歳の記念」と書き記しています。
またこの石碑を見つめる中で、『おくのほそ道』のテーマの一つでもあった「不易流行」を模索するきっかけともなりました。自然や人間・文化が流転していく一方、季節が巡りくれば毎年同じように美しい花が咲くような不変の真実も多くあるという、まさしく天地流転を自ら体感したようです。この考え方・美学は、この後の旅を続けていく道中で少しずつ確かなものとなっていきます。
宮城県 松島
松島や 鶴に身をかれ ほととぎす
江戸時代から景勝地として有名だった松島は、芭蕉が訪れた当時から、遠方の観光客を多く集めていました。芭蕉は文章の中で、松島は日本一の景観が良いところで中国の景勝地と比べても劣ることは無い、と記述しています。この日本一の景観が脳裏を離れず、感動のあまり眠るに眠られず、俳句を詠うこともできなかったようです。(上で紹介している句は、曽良が代わりに詠んだものです)
『おくのほそ道』の中でも、松島の美しさを記したこの章は、松島の美しさを簡潔かつ的確に表現しているとのことで、世界的文学と称する意見もあるほどです。リズム感がありながらも、中国の漢文を文中に引用するなどして、言葉巧みに表現したところもポイントの一つかもしれません。
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岩手県 平泉(中尊寺)
五月雨の 降り残してや 光堂
先ほど紹介した多賀城と同じくして、不易流行を肌身に感じたのがこの中尊寺です。かつて奥州藤原氏3代の時代には京都と比されるほどの栄華を誇った平泉でしたが、芭蕉が訪れた時には一面の廃墟となっており、ほとんど何も残っていない荒れ果てた場所であったようです。雨風に晒されて朽ちかけた姿が哀愁を誘い、かつての栄華に想いを馳せながら、まさに不易流行を感じ取った場所になります。
こうして芭蕉は、世の無常を感じながらも、『おくのほそ道』の残る旅路を進めていくことになります。
山形県 立石寺
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
山刀伐峠を過ぎて、尾花沢から新庄へと旅路を進めていく予定でしたが、尾花沢の住民からの勧めで、立石寺を訪れることを決断します。予定を変更し、本来の旅路からは一旦外れることにしたと書かれています。
山形県山形市にある立石寺は、860年に慈覚大師円仁によって建立された名刹です。奥の院まで続く石段は800段以上ありますが、階段を登り切ったところにある五大堂からの眺めは絶景です。眼下には門前町が広がり、通称山寺と言われる由縁が分かります。『おくのほそ道』には、人々の勧めによってわざわざ引き返して訪れたと書かれています。
この俳句はとても有名ですが、実際に訪れてみると参道は岩と木に囲まれ、ちょうどこの句のように蝉の鳴き声だけが岩にしみ込んでいくような感覚になります。
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ここまでで『おくのほそ道』のルート前半は終了です。残り日本海側の旅路やルートについては、後編にて紹介します。
後編はこちら
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